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上越地域にも飛行機が離発着したことがある

新井のスキー場のあたりから見ると三角形の形をした高田平野である。
ヘリポートは別として、約2kmプラスの長さがとれればジェット機が、1000mクラスならプロペラ機が離着陸可能である、800mはセスナなどの軽飛行機、その程度の広さがあれば高田平野の中に航空機の離発着場、というものが現実性を帯びてくるのである、もちろん予備付帯施設なども考慮しなくてはいけないのは当然であるが。
少し時代をさかのぼってみることにすると、上越地域では土地も十分に余裕がありそんなに難しいことではなかったという事例がある。

昭和の初期、日本での航空機事情は、愛国機献納という国策事業がはじまり全国各地で民間からの浄財により国防力が次第に増強されはじめた。航空戦力においても西欧の先進国に追いつけの一環であるが、当時はほとんどが外国機をそのままの状態か、もしくはライセンス生産したものを「献納」していたようである。第1号の陸軍愛国号献納機は昭和7年1月10日にユンカースk-371機を東京代々木練兵場において献納されている、その後八八式、九一式などという機体が続々と国民各階層、学生からなど献納され総数は、なんと1260機以上に達している。
新潟県の献納機は一部東京の代々木練兵場などでも引き渡しが行われたが、多くの機体は新潟県内の3カ所において献納式が行われ引き渡されている、新潟市営飛行場(現在の新潟空港)、柏崎国民学校運動場、そして上越では高田市中田ヶ原練兵場である。

下の写真は当時の高田市中田ヶ原練兵場での献納式の記録で、4機の航空機が並んでいるが、列車で運んだわけではなく当然空から上越の地に降り立ったものと思われる、左中段に観客と思われる人々の集団がみえる、写真からして飛行場は相当の広さがあり当時の高翼機であれば 十分に離発着が可能な場所であったと推察される。

資料は、上越市の戦後50周年記念誌「50年のあゆみ(上越市発行)」となっている。
ちなみに送られた機体は九一戦ということで参考までにご覧頂きたい。

その後僅か10年ほどで世界に名高い零式艦上戦闘機が誕生するわけであるが、日本の航空機産業の黎明期とも云える時期の高翼機である。当時は航空機そのものがめずらしく、高田市民でもこの献納式に参加した人が多かったろうと想像される。現在はこのように広大な広さが確保できるかどうかが一番の問題となるが、一意に上越地域住民の意志のみにかかっているといえる。

>> 上越人の気質、上杉謙信の参謀

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