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トップページ > ■春日山城編 春日山城の天守部分についての推察

当時は天守という表現は、なかったといわれていますが便宜上一番上の部分という意味で使用します、戦国時代には実城と呼ばれる言い方もありますが、この場合はどうも、一番てっぺんの部分ということではなく、二の丸(郭)や三の丸(郭)なども含めた少し範囲の大きい建造物の集合体をさしているように文献などからは読み取れます。

春日山城の天守部分は、2か所に分かれていて、物見やぐらの部分、それと御殿の部分(住居もしくは儀式や作業部分)です。



なんといっても一番目立つのは物見櫓、現在の春日山城址の状況から見ますと、二つの構成部分は堀切で遮断されていたような形になっています、それを後世の絵図などで検証しようとすると、書かれている角度からでしょうか、どの絵図も二つの構成要素として書かれてはいません。

唯一、二つの要素が感じ取れる絵図といいますと、林泉寺所有の絵図写しです。


この上の絵図は最初の図で緑色の矢印から眺めたようにとれます、今回はこの二つの資料から天守部分の外観について推察してみることにします。

【推察1】--------------------------------------------------------
中心の一番大きい3階建ての構造物を櫓だとしますと、櫓部分と御殿部分に若干の空き地が読み取れます、そこの手前に堀切をおいて区切っていたのかもしれません、絵図からはっきりと読み取れない堀切部分を屋根付きの廊下などで橋をかけるように覆ってしまい住居部分とつなげて一体化して使用していたのかもしれません。
櫓と御殿(住居)部分が視る角度によって重なってみえるためですが、これが1つめの推測です。
つまり、櫓は中心にある3重(4重?)の建物、そして御殿(お屋敷部分)はその右横の低い一連の建物群。

【推察2】--------------------------------------------------------
二つ目の推測は、天守部分を分けている堀切が、絵図の中心にある3階建ての建物の左だとしたら、確かにこの部分は間隔が空いていますから堀切に見えます。そうすると、その左に見える小さな付け足しの2階建ての櫓のような物が、物見櫓だということになります。これだとずいぶんと小さい物見櫓だった、ということになってしまいます。2階建てくらいでしょうか絵図から見ますと。
この物見櫓についてですが、2重ではなく3重の櫓とする見方があります。
第1回の勉強会の資料などにも3層の櫓だととれる文章がありますので、後日順番に公開する予定です。
つまり、絵に描いてある付け足しのような櫓が天守台に建っていた櫓だということ。

【推察3】--------------------------------------------------------
左上にある丸い印、これを井戸の跡とすると、付け足しのように表現されている小さな櫓が、3重の櫓であり一番高い建物は、本丸跡とされる場所に建っている建物であり、それは天守台に作られた物より遙かに大きな、場合によっては4重の櫓にも見えますので、天守部分には3重とされる物見櫓より、もっと大きな4重の壮大な天守が建っていたのかもしれません。

(★推察3はfacebook-page2016.3.8発信している情報に付け加えたものです。)

林泉寺所有の絵図から、今回は天守部分の3つの推測をたててみましたが、、他にも今後有力な資料が出てくるかもしれませんね、この辺の櫓の形、場所、など今後の大きな研究課題です。


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