第1回勉強会 資料(1) 春日山城の上杉謙信屋形図 解説原文
櫻井成廣著「戦国名将の居城」その構造と歴史を考えるより
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第1回勉強会 資料(2) 春日山城の上杉謙信屋形図 簡易解説、雑誌掲載文(資料1とほぼ同じ)
掲載された雑誌名は不明です。こちらの方が読みやすいでしょうか。
PDFファイル 9.82MB 全5ページ
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第1回勉強会 資料(絵図) 国会図書館にある春日山城絵図
現物は2種類の図面がありますが、屋形図のほうだけです。
印刷して、うまく張り直しする必要があります。
もう一つの絵図は配置図のような感じですので今回は割愛しました。
PDFファイル 17.5MB 全7ページ
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第1回勉強会 資料(3)
上杉謙信の足跡 上越城郭研究会発行より
小冊子の抜粋で読みやすい資料です。春日山城の概略をわかりやすくまとめてあります。上越城郭研究会同人会の出版物で中心に活動された方は上越高等学校社会科クラブ山城班を指導した当時の高校の先生たちです。
調査に参加した先生、生徒さんたちの名簿(300名ほど)のページもありますが、そちらは非公開としました。
もし参加者一覧が必要な方facebook-pageからご連絡ください。
PDFファイル 8.65MB 全25ページ
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第1回勉強会 資料(4)
上杉謙信の牙城春日山とその天守台 室岡 博 信濃史学会発行、信濃第21巻第
1号
天守部分に関しての考察論文です。
資料1、2の櫻井氏の解釈なども書かれており当時の姿が良く研究されています。
春日山城には石垣はなかったなどとの説が上越では当然のように語られていますが高田城の三重櫓は確かに急な天下普請で、石垣はなく土塁の上に櫓が築かれました、そうだからといって春日山城も全く石垣などなかったという説には当時の謙信の戦歴からしても多少の疑問を感じています。
本資料にも文末でふれていますので、天守部分の検討資料の一つとして参考にしてください。
PDFファイル 4.19MB 全6ページ
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第1回勉強会 資料(5)
春日山城と上杉謙信 越後城郭研究会発行より抜粋 越後城郭研究第4号
昭和55年に発行された書籍の一部分、古文書に関しての資料です。
この書籍も簡潔にまとめられており、春日山城研究の書籍としては一度目を通していただきたいものです。ただ、本書籍は今では絶版となっており、購入する場合はネット通販アマゾンで買えますが、価格が高騰しており税込み8000円近くしています。
謙信公ブームで値上がりしたのでしょうか。
PDFファイル 7.35MB 全9ページ
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第1回勉強会 資料(6)
古文書、頸城群誌稿をはじめとした各種文献
出典元の数多くの文献名が表示されています、すべて読むと大変ですから、何かの目的に絞って情報をとった方が良いと思います。
上杉家古文書、歴代古案、中村直人氏所蔵文書、大島保氏所蔵文書、武家事記、寸金雑録、他多数の文献が紹介されています。この資料は米沢市の市立図書館でコピーしたもの記憶しています。
当時は、このような形で公開すると思っておらなかったため、この資料に関しては書籍名不明です。
あしからずご了承お願いします。
PDFファイル 7.43MB 全16ページ
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第1回勉強会 資料(7)
上杉氏と長尾氏略系図、春日山城跡図など
これは、上越市図書館(直江津駅前)でのコピーですが、出典の文書名は高田市文化財報告書
第8集、とあります。読みやすい資料です。春日山城の再建をめざす会facebookpageの表紙の写真はこちらのを利用しました。
PDFファイル 8.63MB 全10ページ
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第1回勉強会 資料(8) 16世紀末越後国の石高(米等の生産高)と人口
新潟県内の各市町村、景勝時代の人口がわかります。1598年越後国全体の人口は166,000人とのこと
当時の中頸城郡の人口は約3万人です。江戸時代に入って急激に人口が増えています。そして現代に入り人口のピークは2000年代で、それ以後の予想はご存じのように、新潟県はもとより日本の人口は急激に減ることが予想(国の発表)されています。
PDFファイル 4.14MB 全7ページ
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第1回勉強会 資料(9) 春日山城の地域拡大とその時代性について(論文 金子拓男氏著)
この資料は、途中から始まっていますが、論文全部をそのまま掲載でも良かった感じがしています。
掲載部分は春日山城の地域拡大を9段階にとらえて解説しています。
この資料の57ページに興味ある文章があります。
福島城、高田城に関する事ですが、高田城の3重櫓は春日山城にあった可能性が高いという一文、実に興味ある一文です。
春日山城とは時代も違い全く縁がない思われている高田の三重の櫓との関連について、大胆な解釈がされています。
この論文ではふれていませんが、高田の三重の櫓は装飾の多い、非常に華麗なデザインであり徳川の質実剛健を基とするような作り方とするには、なにか違和感があること。
元は豊臣流の外見のお城だとしたほうがしっくりくること。
(一応!!これは全くの私見で感覚的な意見です。)
謙信公がなくなられ、景勝の時代が終わり、堀氏が景勝の跡に春日山城に入りましたが、現在の天守閣跡というところに、堀氏が普請をしたのは三重の矢倉であったこと。
当時は城を持ち回して移設することも多々あったということ。高田城普請は非常に急いだ工事で短期間での3重櫓建設には難があること。福島城の三重櫓をそのまま移設したのでは?
など諸々、この辺りに関しては別にページを構成した方がと考えていますが。
なんとこの一連の考え方では、高田城の3重の矢倉の原型(もしくはその本体)が、春日山城のてっぺんに建っていたことになってしまいます。何ともこれは夢のある話ですが、
上越にある三つのお城跡、関連性なども調べてみるのも、また良いのではないかと思うわけです。
57ページ下段〜60ページに関連の掲載があります。
この資料は1980年頃から2000年くらいまで発行された文献です。この20年間に春日山の研究が官民をあげて行われ、ここで紹介した以上にたくさんの発表文献があります。
PDFファイル 4.37MB 全6ページ
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第1回勉強会 資料(10) 春日山城絵図集(縮小版)
まだたくさんの絵図があると思いますが、こちらでは順不同で9枚を紹介しています。
9枚目は観光用に作られたものですが、イラストや説明などわかりやすくなっています。
観光マップなどは、春日山城城跡の前に作られた資料館に置いてありますので、春日山城に上られる前に、ぜひ一度立ち寄ってみてください、山城めぐりで最上段まで登れなかったということもなくなります。
PDFファイル 4.62MB 全10ページ
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